西美濃四人衆・不破光治に付いての各種文献
不破 光治(ふわ みつはる、生年不詳 - 天正8年(1580年))は、戦国時代〜安土桃山時代の斎藤氏・織田氏の家臣。不破勝光の父。太郎左衛門尉・河内守。
早くから美濃国の戦国大名斎藤氏に仕え稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全たちと共に西美濃四人衆と言われた。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたとも言われているが、斎藤氏滅亡後は織田氏(織田信長・信忠)に仕え主に外交面で活躍した。
柴田勝家に従って越前一向一揆を平定後、越前竜門寺城の城主となった。ともに周辺地域を治めた佐々成政、前田利家らと府中三人衆と呼ばれた。
一説には美濃時代に光治と近隣の竹中半兵衛の間には領地の境界を巡って対立があり、不仲だったとも言う。
A■西美濃四人衆
安藤守就
稲葉一鉄
氏家卜全
不破光治
(注)美濃三人衆・安藤守就 稲葉一鉄 氏家卜全
いずれも斎藤家の重臣だったが龍興を見限り、信長に内通した。不破光治を加えて西美濃四人衆とも。
B不破光治(ふわ・みつはる) ?〜1580
通称は彦三。河内守・太郎左衛門尉。美濃国西保(神戸)城主。不破通直の子。
美濃国不破郡の豪族で、早くから土岐氏に仕え、次いで斎藤氏、元亀元年(1570)には織田氏の幕下となる。斎藤氏に仕えていた頃は美濃三人衆に比肩するほどに重用され、三人衆に光治を加えて「西美濃四人衆」と呼ばれていた。
天正3年(1575)に織田信長の越前攻略に従軍し、勲功あって柴田勝家の与力大名として越前国府中10万石を前田利家・金森長近と共に賜り、3万3千3百余石を領有する。
天正8年(1580)12月14日没。
C不破光治(ふわ みつはる) ????〜1580
○彦三 太郎左衛門尉 河内守
◇父:不破通直 子:不破彦三直光、彦五郎
早くから美濃・土岐氏に仕え、後、尾張・織田氏家臣となる。越前攻略に功あって柴田勝家与力となり越前府中を領有、“府中三人衆”の1人となる。
D府中三人衆 前田利家、佐々成政、不破光治
1575(天正3)年、越前朝倉氏を滅ぼした信長は、府中10万石を前田利家、佐々成政、不破光治に分封します。これにより利家は39歳にしてはじめて3万3千石の大名となります。彼らは「府中三人衆」と呼ばれ、越前8郡を治める司令官柴田勝家の目付け(監督)役でした。信長勢はこの越前平定にいたるまでに朝倉氏や浅井氏、越前一向一揆衆を滅ぼしており、これらの戦が、利家の北陸地方への第一歩でした。
1575
E龍門寺城
正安元年(1299)悦巌崇善が龍門寺を創建。
不破光治
柴田勝家旗下で府中領十万石を小丸城の佐々成政・府中城の前田利家と均分し府中の治政を行い府中三人衆と呼ばれた不破光治の居城。朝倉討伐や一揆討伐など信長は度々この城に着陣している。